ユニットケアの導入が進み、日本の介護は「尊厳の保持」や「その人らしい暮らしの継続」という美しい理念を掲げてきた。
自宅と同じようにパンツで過ごすこと。 トイレで排泄すること。 できる限りオムツやパッドに頼らないこと。
その方向性自体は、決して間違っていない。誰もが最期まで人間としての尊厳を持って暮らしたいと願うのは当然だ。けれど今、その「きれいごと」の理念が現場でねじ曲がり、本当の意味での「その人らしさ」や「尊厳」をつぶしてしまっているのではないかと思ってしまう自分がいます。
「オムツは悪」「大きなパッドは手抜き」。 縛られた結果、現場では言葉で「トイレに行きたい」と伝えられない人にも、無理やり布パンツと最小限のパッドが使われている。
これは本当に先進的な考えなのでしょうか。
その結果どうなるか。 本人はタイミングを伝えられず、居室やリビングの床まで尿が垂れ、濡れた衣類のまま過ごすことになる。廊下に広がる臭い、汚れた椅子、そして何より、自分の意図しないところで不潔な状態に置かれる本人様。
床に垂れた尿を拭き取るスタッフの姿がある。感覚が麻痺しているのか、それとも「理念に向かっているのだから仕方がない」と見ないふりをしてしまっているのか。
床掃除をしている職員の姿をみて恥ずかしいと思えないのか。
これのどこが「尊厳を守るケア」なのだろうか。 これのどこが「その人らしい暮らし」なのか。
失禁が増え、衛生環境すら保てなくなっている。それなのに「オムツを大きくしたくない」というが優先されている。
「トイレ誘導をがんばる=善」「オムツや大きなパッドを使う=悪」という極端な二者択一を迫り、その結果として起きた床の汚れや利用者の不快感を「仕方のない犠牲」として見過ごしてしまう。
パッドの使用も吸収量ギリギリまで吸わせて、体重がかかったときに染み出る尿。これが本当に不快ではなのでしょうか。
ユニットの実地研修施設ほど、その風潮が多く見られる
見学者や実習生が来る、あるいは「うちは先進的なユニットケアをやっている」という自負があるからこそ、「オムツに頼っている」「大きなパッドを使っている」という事実を外に出すことができない。
その結果、現場の実態がどれほど破綻していようとも、表向きの「オムツ外し」「完全パンツ主義」というスローガンだけを形骸化して死守しようとする。
その結果、現場の実態がどれほど破綻していようとも、表向きの「オムツ外し」「完全パンツ主義」というスローガンだけ死守しようとする。
「パッドの交換は〇時間おきに決まった時間に行う」「これ以上パッドを使ってはいけない(コストや枚数の制限)」というマニュアルや縛りがあるために、どれだけ本人が濡れていようが、尿があふれていようが、時間まで交換できない。
「見えないからいい」という麻痺した感覚
布パンツやパッドの中がどうなっているか、本人が訴えられないのをいいことに、外から見て大きな漏れがない限り放置してしまう。
「しっかりトイレのタイミングを把握し、清潔を保つ」という大前提があるからこそ、やむを得ずパッドを使用する場合でも、「汚れたら速やかに交換し、皮膚を清潔に保つ」ことは、介護における最も基本
僕は、決して「楽をしたいから大きなオムツをつけろ」と言っているのではありません。「トイレに行けるチャンスやその人の力を最初から諦めろ」と言っているのでもない
「しっかりとその人の排泄のタイミングをアセスメントし、寄り添いながら、それでも避けられない失禁や夜間の時間帯には適切な道具を使って清潔と尊厳を保つ
日中、しっかりと意志疎通ができてトイレに行きたい意思を示せる時間帯や、本人の「トイレで排泄したい」という尊厳を大切にしたい場面では、布パンツや適切なサポートでその人らしい生活を支える。
一方で、夜間や睡眠の時間を最優先したいとき、あるいはご自身のタイミングで伝えるのが難しい時間帯や状態のときには、無理をさせず適切なパッドやオムツを使用して、皮膚の健康と清潔、そして安心できる環境を守る。
布パンツが合う方、紙パンツが合う方、オムツで合う方、その人の身体状況やその時の状態に合わせて、柔軟に「使い分け」をすることこそが、支援者側の都合でも見栄でもなく、「その人の暮らしの継続」と「尊厳」を守るためのプロの判断なのではないでしょうか。

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